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2021年10月30日、衆院選前に「言論の自由」について思うこと

「世界にはホロコーストだけでなく、米先住民の虐殺もアルメニア人虐殺もルワンダの虐殺も、南京大虐殺も戦時慰安婦の存在も、地球温暖化も否定する人たちがいる。ナチスや米国人、オスマン帝国、フツ派、日本がそこまでひどいことをしたと思いたくない。『不都合な歴史』だからだ」

デボラ・E・リップシュタット

「(虚構を真実と思い込む読者はいないとする批評家の言葉に)
“小説文化について深く理解する人による文学の共同体”と“朝日新聞の数百万人の購読者を含む一般の世間”の違いを、失礼ながら、無邪気なほど知らないことに、おどろいた。一つの共同体にずっといるとそのような視野になってしまうのだろうか。これらの声に触れたとき、わたしは残念な気持ちを強く感じ、落ちこんだ。小説を読んだり論じたりすることが、自分たちの生きる社会を理解する縁(よすが)になりえないなら、書く側は虚しさに捕まると。
作家も批評に、おどろき、傷つき、発見し、成長し……そしてやはり、他者として尊敬したいのだ」

桜庭一樹「キメラ――『少女を埋める』のそれから」(『文學界』2021年11月号)

冒頭引用は、「ユダヤ人虐殺はなかった」とする否定論者アーヴィングとの裁判を闘い抜いた歴史学者デボラ・E・リップシュタットの言葉。
そして、それを思い出すきっかけとなった文學界2021年11月号・桜庭一樹「キメラ――『少女を埋める』のそれから」より。

こんにちは、紅龍堂書店の久利生杏奈です。
「キメラ――『少女を埋める』のそれから」、面白いのでぜひ読んで頂きたいです。
特に、明るい小説が読めない誰かに。
日本の小説は浮世離れしすぎて読めなくなった、ずっと好きで追いかけていた作家の文章さえ、ジェンダー感の欠如や無自覚な差別、政治的関心への乖離から、段々と違和感を覚えて読むのが苦痛になってしまった、という誰かに。
現状だけを見ると絶望しか無い日本ですが(と言われて、共感する人にこそ手に取って欲しい)、それでも尚、ふっと仄かな希望が感じられ、前を向くきっかけとなりました。

以下、備忘録です。
10月31日の衆院選を目前に、必要だと信じたことを書き置きます。

https://twitter.com/BooksKuryudo/status/1446776499080556544

嘘をつくことは「得」なのか

10月8日にフィリピンのマリア・レッサ代表、ロシアのドミトリー・ムラートフ編集長がノーベル平和賞を受賞。二人はフェイクニュースと闘う報道者です。
しかしこの流れから逆行するように、日本では10月21日、立憲・石垣議員が虚偽投稿への開示請求を起こした裁判で、棄却判決が出ました。
東京地裁の大浜寿美裁判官は「(投稿が)何者かによって加工されたものであると認定するのは困難」と判じていますが、思い出したのは1996年のアーヴィング裁判、そして「嘘をつくほうが得だと皆が気づく」というある実業家の言葉。
前者は、2000年4月、冒頭で引いたとおりドイツで既に決着がついた歴史。
後者は、2021年1月、日本のダイアモンド・オンラインの取材で飛び出た惹句。
この皮肉。
ドイツ刑法130条3項を皮切りに、ヨーロッパ主要各国がホロコーストやジェノサイドの否定禁止法を整備し、世界的には嘘をつくほうが得「ではない」と改めて歴史に回収されて行きそうな中、時代錯誤な「未来」を語ったのは匿名掲示板2ちゃんねるの創始者。私個人は生理的に受け付けない人物なのですが、発言自体は的を射ているとも感じました。

確かに日本は、時代錯誤だからです。

良いか悪いかは別として、人は事実からは逃れられない。
それが、「事実を軽んずる国に生きている」という事実だとしても。
アメリカではトランプ氏が選挙で敗退しましたが、片や日本は八年に渡り全てが野放し。企業の場合でも、仮に誇大広告や嘘があっても商品を返品されて終わり。米のように嘘だと訴えられて懲罰的賠償を請求されることもない。
ペナルティがない。

私たちは、「嘘つき」の国に生きている

大浜寿美裁判官は、こんな判例を作ってしまったが最後、画像捏造やデマ拡散にお墨付きを与えるも同然で、この時代にどういう判断なのだろうとぐったりしたのですが、そもそも日本は、最初からそういうユルい土壌の国だった、「嘘をついたもの勝ち」という見えない構造があったのだと、考え込まざるをえませんでした。
それはこの八年の話に限りません。
戦中プロパガンダを「宣伝」と言い換え、敗戦を「終戦」と言い換え、いつも臭い物に蓋をし、みんなで見て見ぬふりを選んだ国。恐らくほとんどの日本人は、「戦争」という言葉から広島と長崎は想起しても、南京大虐殺、バターン死の行進、マニラ大虐殺などについては知りもしないのではないでしょうか。
勿論、無知それ自体は嘘ではありません。
けれど事実と向き合わない姿勢は紙一重です。
日本人が自国の加害の歴史を正視しないという指摘は、冒頭のリップシュタット然り、昭和プロパガンダに詳しいバラク・クシュナーや、『敗北を抱きしめて』でピュリツァー賞を受賞したジョン・ダワーも指摘しているところですが、何も権威の言葉を借りずとも、フィリピンへ行けば「ヤマシタって知ってる?」と聞かれますし、9月19日には「今日がなんの日か、きっと君は知らないよね」と中国人に暗く笑われます。

「アジアの解放」と嘯いてアジア人を虐殺した歴史を、日本人だけが知らない。

無邪気で美しい国。

「嘘つき」は政治家だけではない

戦争への「加担」は軍部の暴走だけではなく、文壇も含め国民ぐるみだったということは、正直、このコロナ禍を見ているだけでも想像に難くありません(詳細は後述します)
現に日本には、1944年時点で1億8700万ライヒスマルクの予算を投じたナチスの国民啓蒙・宣伝省に匹敵するような、中央集権的なプロパガンダの権威は存在しませんでした。せいぜい内務省の情報局と、特別高等警察くらい。それ「だけ」で国体の維持などできるはずもない。ではどこに頼っていたか。

コロナ禍で自粛要請する「だけ」で、国民同士で監視しあう。
陽性者の家や車には嫌がらせのビラが貼られる。
貧すればボランティアが炊き出しをし、子ども食堂が増え、医療現場は不眠不休で稼働し、出版社はこぞって大量のワクチン関連本を印刷する。

そう、今と同じ。

「活躍」したのは、民間です。

戦時下プロパガンダの立役者と言えば、音楽や観光事業を戦争推進のために機能させ、『宣伝技術論』(1937)、『思想戦と宣伝』(1940)、『戦時宜伝論』(1942)などの著作を残した小山栄三が浮かびますが、他にも鶴見祐輔、小山桂三など、ゲッペルスのような極悪人からはほど遠いイメージの「勤勉」な知識人が数多く参加していました。
1937年には岩波書店、改造社、中央公論社、文藝春秋、講談社を含む主要な54の出版社による「出版懇話会」が発足し、これは私的な任意団体であったにも関わらず、その会議は毎月内務省で行われ、戦争と出版に関する議題が話し合われています。

「効果的なプロパガンダは突然現れるのではなく、それは緻密な研究・分析・制作を必要とした。そのためには、社会心理・世論・調査手法・産業出版・多様なメディア技術を理解する専門的なスタッフが不可欠であった。これらの男女は、自由主義から保守主義まで様々な思想的背景を持っていたが、その経験や態度にレッテルを貼るとするならば、それは「民主的ファシズム」が相応しいだろう。プロパガンダ活動に携わった人々の動機は様々だ。キャリアアップに繋がると思った者や、プロパガンダのメッセージに強く共感した者、当時の熱狂的な雰囲気に飲み込まれた者や、自己利益実現の絶好の機会と捉えた者などだ。」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

市民の「賛同」なくして、政府の暴挙は通らない。

今、リベラルに見えても、政治を自己実現にする人を警戒するのはこのためで、「みんなで嘘を作る」手腕にかけては、日本人は筋金入りだと思っているからです。
そこには私自身も含まれます。
とりわけ左派の致命的な弱点は、誠実や正直、大義名分に酔いやすい点です。侵略戦争は許せずとも、「アジアの解放」ならば受け容れてしまう感性。
過ちを犯す者も寛大に迎え入れることを「美徳」とする価値観。
あるいはそれを「教養」と思い込んでいる高慢。
この傾向はとりわけ戦後史を見ると顕著で、敗戦してGHQが入っても新聞社は解体されず、前述の小山栄三と小山桂三に至ってはSCAPに雇われ、内閣情報部の初代部長だった横溝光輝は国立公文書館の顧問に任命されています。
つまり、言論の場において病巣はそのまま放置され、それどころか「鬼畜米英」プロパガンダで辣腕を振るった勢が華麗に「復興」プロパガンダに転向している。

もっとも、それを後世の人間が一概に責めることはできない、とも思います。
私は、1945年の焼け野が原を肉眼で見たことがないですし、絶対的に「人が居ない」という状況だけは想像ができないからです。経歴に関係なく社会管理の専門知識が必要だったのは実際でしょうし、アメリカの徹底した現実主義は今に始まったことではありません。当時、米国に日本文化の専門家はほぼ皆無でしたから、現地で「人材」を調達した合理性も理解はできます。
たとえ「人材」が戦犯でも、他に瓦礫を拾える人間がいなければ頼るしかない。なかったのかもしれない。

それでも。

75年経てば、話は別だと思うのです。

いつまで「嘘つき」の国で生きるのか

「思い出してほしい、最初のタブー破りの人事は、日銀総裁への黒田東彦氏の就任だった。リフレ政策と異次元の金融緩和に踏み出すことで、政府の金融政策を掣肘する日銀の独立性は失われた。次にNHKの会長人事に元三井物産副社長だった籾井勝人氏を充てた。就任時の会見で「政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」と発言して物議をかもした。これ以降、「みなさまのNHK」は「アベさまのNHK」と呼ばれるようになり、NHKは「国策会社」と揶揄されるようになった。次に安全保障関連法制を視野に入れて内閣法制局長官を法律に詳しいとは言えない外務省出身の小松一郎氏に置き換えた。憲法学者が右から左まで「違憲」と判定する「集団的自衛権」を合憲と認めさせ、解釈改憲を成しとげる共犯者に仕立てた。森友・加計問題、桜を見る会などの不祥事が次々に明らかになると、追訴を怖れて検察庁長官人事に手を突っ込もうとしたが、これは失敗した。SNSを中心とした世論の激しい反発を受けたからである。いずれのポストも政府に任免権があるが、政府からの相対的な独立性を要求される政府機関であった」

佐藤学・上野千鶴子・内田樹編『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』晶文社,2021

これらは、現在進行形の話です。

事実であり、史実となっていく話です。

1940年代は、「戦犯」を野放しにせざるを得なかったのかも解らない。
一つの国家に民主主義を根付かせるための占領は綺麗事だけでは進まない、必要悪だったのかも判らない。
けれど今、尚、2021年のコロナ禍に及んで、日本政府が日本学術会議の6名を任命拒否し、防衛省がインフルエンサー接触計画を立て、閣議決定で教科書にまで介入するというのは、ショック・ドクトリンを通り越して狂気です。
戦中の亡霊に取り憑かれた政治家の病と言われても仕方がなく、世界の独裁・全体主義の歴史に照らしても露骨極まる劣悪さです。

「菅義偉内閣総理大臣は、2020年10月1日から任期が始まる日本学術会議(以下「会議」という。)の会員について、会議からの105名の推薦に対し、6名を任命から除外した。この任命拒否について、具体的な理由は示されていない。
会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」(日本学術会議法第2条)である。同法前文においては、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命」とするとされ、同法第3条には職務の独立性が明定されている」

2020年10月22日、日本弁護士連合会「日本学術会議会員候補者6名の速やかな任命を求める会長声明」

「文部科学省は8日、「従軍慰安婦」や「強制連行」という表現は不適切だとする閣議決定を受け、教科書会社5社が6月末までに、高校の歴史教科書など計29点について、記述を削除するなどの訂正を申請したと発表した。文科省は申請を承認したという。」

時事ドットコム 「従軍慰安婦」などの記述削除 教科書会社5社、閣議決定で―文科省

忘れてはならないのは、閣議決定というのは国務大臣「だけ」で決める政治の一プロセスに過ぎないということ。国会提出さえされていない段階です。
極めつけは、コロナ禍で閉会中の、暗闇での決定だったということ。
2020年も、2021年も、疫病で問題が山積していた中、夏休みに入った政府なんて世界中見渡してもありません(そもそも違憲です)それで閉会中審査で何をしていたかと思えば、国民投票法改定案、デジタル改革関連法案、土地利用規制法、病床削減推進法案、種苗法改定案など、数え切れない悪法が通されていた。

日本学術会議問題は、その中でも水際立って酷い、戦慄を覚える、今まさに進行形の歴史です。

こういう問題がマスコミに取り上げられ顕在化する頃には引き返せない所まで来ているのが常ですから、嫌な予感がしつつ、文科省の教育指導要領に目を通していよいよ血の気が引きました。

「言語活動が十分行われるよう適切に教材を選定して,「現代の国語」の目標の実現や内容の習得がなされるよう学習指導を展開していくことになる。その際,総則の第1款の2の(2)に示す道徳教育の目標を意識し,道徳教育との関連も考慮して教材を選定する必要がある。

【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)p.113

課題の設定の例としては,言語文化に直接関係するもののほか,自然や天候,先人の死生観,仕事や学問,病気や健康,宗教や道徳,恋愛と結婚など,現代社会に共通するものを選択することも考えられる。

【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)p.269

我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養うことは,伝統と文化を尊重し,それらを育んできた我が国と郷土を愛することなどにつながるものである。教材選定の観点として,道徳性の育成に資する項目を国語科の特質に応じて示している。

【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)p.286

指導要領からきな臭く読める箇所だけを恣意的に抜粋したわけではないので念のため補足すると、p.286では「総則関連事項」としてわざわざ一項目使って、道徳教育との関連付けの必要性を説いています。
「道徳」という言葉について、恐らく知らない方も多いかと思うので補足します。
自民党が、特に教育について掲げる「道徳」とは、儒教道徳とは全く異質なものです。神道と国家神道が異質なものであるのと同様に、岸信介内閣の文部大臣・松永東が「民族意識や愛国心の高揚を“濃厚に”教え込むために道義に関する独立した教科を設けたい」と語ったのが科目としての「道徳」の始まりです。

戦前の学校教育では修身科が道徳教育を担った。だが修身は、連合国軍総司令部(GHQ)の指令を受けて戦後廃止される。代わって、道徳教育は学校教育全体で進め、とくに新設の社会科で社会についての科学的認識を育て、それを基礎にして道徳的判断力を育てるという方針がとられた(『世界大百科事典』平凡社)。松永はこれに対し、「倫理というか、修身というか、そういったものを小、中学生に“濃厚に”教えこまねばならない。それにはいまの社会科では不十分だし、全教科の中で教えるということではボケてしまう。はっきり独立の科を設けた方がよい」と、再検討をうながしたのである(『朝日新聞』1957年8月4日付夕刊)。

近藤 正高「ご存知ですか? 8月4日は文部大臣・松永東が「道徳」教科設置を表明した日です」2017年8月4日、文春オンライン

つまりは愛国教育です。
人権や倫理について説く教科「ではない」のです。
本質は戦前の教育勅語に近く、目上の人を敬えであったり、集団の規律を乱すなであったり、政府が管理しやすいように空気を読む人材を作るのが目的の概念です。ご自身の学生時代に照らしても、心当たりのある方は多いのではないでしょうか。
愛国の是非についてはここでは問いませんが、問題は、「国語の教科書で取り扱う文章で愛国を刷り込む」やり方が、正しいのかということです。

「嘘つき」の国の教育方針

プロパガンダを「宣伝」と言い換え、敗戦を「終戦」と言い換え、「従軍慰安婦」や「強制連行」の加害の歴史を削除することが、果たして愛国に繋がるのか。

そもそも、それは教育なのか。

「プロパガンダは「教育」とも似て非なるものだ。教育を厳密に定義すると、それは「知識の習得を目的とするシステム」となるが、教育はそこで得た知識をどのように用いるかに関してはほとんど語らない。その知識を用いるか無視するかは、各個人の選択に委ねられている。これに対しプロパガンダは、ある特定の目標を念頭に知識を伝搬することを目的としている」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

国を愛するも愛さないも自分で決めればいい、というのは私自身の考えでもあります。
教育とは、自己決定の選択肢を増やすことだと信じています。そのために歴史を学ぶのだと。
愛国に限らず、親への愛情等もそうですが、「一つの感情を人(国)から強要される」という構図は、教育とは正反対の倒錯であり、グロテスクだと感じます。
与党の公約を見ると「家族愛」すら憲法に書き込もうとしていますが、人の在り方は多様です。
親がいない子どももいれば、虐待家庭に育つ子どももいます。

「(憲法24条改憲案の)“家族は、互いに助け合わなければならない”という一文は非常に問題です。家族が助け合うことそれ自体は悪いことでないかもしれませんが、憲法はあくまで権力者を縛るために存在する市民からの命令です。その憲法に、市民に対する命令が入ってしまうのがまずおかしい。そして、これが最高法規となることで『助け合いが基本なのだから、育児や介護などはすべて家族内で担うべき』という解釈が成り立ってしまう。生活保護の扶養義務なども、国でなく親族の負担として強化される可能性が十分に出てきます」

山口智美「多様な家族を認めない「憲法24条」改憲案。育児や介護の負担増、結婚・離婚も不自由になる?!」THE BIG ISSUE online,2018年11月21日

奇しくも先月、似たような歴史の国としてパキスタンを挙げましたが、今、タリバン制圧下でアフガニスタンの学校がどういう状況に陥っているか、ぜひ慎重に見て頂きたいと思うのです。
正直、教育指導要領については私も判断に悩み、大学入試共通テストのサンプル、次いで東大から順に国立大学の赤本にも目を通したのですが、まず共通テストサンプルに駐車場や不動産の契約書が載っている異様さ。社会科で法律を学ぶなら素直に歓迎できるのですが、国語でやるべきものなのか。また小説が必修から外れ、何が文学かも明示されないまま「文学国語」という選択科目に変わっている。
一方で国立名門大学の入試問題は、皮肉というか、案の上というか、思想統制や検閲の危険性、格差社会についてなど、暗に日本の愚を学生に問う文章が増えている。
暗澹たる気持ちになりました。
これではますます教育格差が広まるなと。

10月31日、衆院選の投票の参考にして頂ければ幸いです。

以上は主に政治の話でしたが、文壇でも、特筆すべきと感じた出来事を個別に書き置きます。
戦時下プロパガンダが中央集権的なトップダウンではなく、民間から同時多発的に加担された歴史は先に触れた通りですが、今も同じ事が起きているからです。
フェイクニュースの時代、誰が事実を重んじ、誰が倫理を踏み外し、誰が声を上げ、誰が黙っていたのか、ただ淡々と書き記す愚直が、恐らく何よりも未来に物を言ってくるのだろうと信じます。それは八年前から感じ続けていた危惧でもありますが、改めて諦念にも近い感慨を抱きました。
その気持ちに、救われました。
残しておきます。

「表現の自由」は、嘘にも適用されるのか

「この世には、作られたのではない確かな「真実」が存在し、集団受難には確かな「加害者」と「被害者」が存在する。真実とフィクションの間に違いがないとか、またはすべての文章がフィクションであるというふりをするのは、事実と虚偽を区別する能力を麻痺させることに繫がる。それはプリーモ・レーヴィや、過去に苦しんだすべての人々への、最大の裏切りではなかろうか」

イアン・ブルマ著,堀田江理訳『暴力とエロスの現代史』人文書院,2018
https://twitter.com/BooksKuryudo/status/1432667602959028226

余計なお世話だったり出過ぎた真似かなとも悩んだのですが、強烈な違和感を覚えたというか、翻訳者や批評家を名乗るプロフェッショナル、それも大御所の方が、リテラシーを無視して加害的立場に走るというのは、若手としては切実に、やめて頂きたいです。

解釈の「自由」とは、公共や実在人物の安全を脅かしてなお際限なく許されるものなのか。

きっかけはTLで偶然、前記の桜庭氏のツイートを目にしたことでした。
作家が、情報を文章ではなく音に載せている。この時点では異物を目撃したような感覚が強かったのですが、音源を聞くにつれて背筋が冷えました。
事実ならば早急な対応をしなければ命に関わるのに、ネット上では新聞社への切迫した批判がないこと、「桜庭氏と鴻巣氏の個人的な論争」「よくあるネット炎上のネタ」といった空気で済まされそうな温度差にもざらっとした違和感を覚えました。
「被害者」の訴えに、臭い物として蓋をするような空気。

――「アジアの解放」と嘯いてアジア人を虐殺した歴史を、日本人だけが知らない。

SNSでは見たくないものを見ないことが仕様として許されていますが、事実と向き合わない姿勢が、嘘と紙一重である歴史は触れてきた通りです。
失礼ながら、私は桜庭氏の『少女を埋める』も鴻巣氏の文芸時評も未読だったので、まず前者の無料公開分を拝読し、文學界9月号を購読し、その上で鴻巣氏の書評に目を通しました。
結論から、書評は鴻巣氏の誤読であり、それもかなり深刻なミスリードだと判断せざるをえませんでした。
以下に理由を綴ります。

問題となったのは、朝日新聞の文芸時評。
テーマはケア。

「サン=テグジュペリは第二次大山中、米国に亡命し『星の王子さま』を書いた。同作には祖国を出て行った物の惑いが投影されている。
王子の内なる闇が、子供の私には理解できなかった。ところが最近再読すると、この少年がヤングケアラーに見えてきたのだ。彼が独り切り盛りする星には、手入れを怠ると星を滅ぼす木や火山があり、注文の多い花は寝たきり者のようだ。
10代後半から介護を経験した今の私には、若者が持ち場を放棄して遠くへ行きたくなるのも、その後に抱えた心の重りもわかる」

鴻巣友季子「(文芸時評)ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」朝日新聞デジタル,2021年8月25日 

まず書き出しで違和感を覚えました。
「子供」という表記を、ケアの現場では使わないからです。
「供する」という字に供物のニュアンスがあるため、「子ども」と書くよう表記指導を受けます。特定のテーマについて触れるとき、その分野の単語について私は(というか恐らく大半の同業者が)取材をするのですが、あれ? と棘のような気持ち悪さを感じて読み始めました。
誰かの感情を「わかる」と簡単に言う人を私は信用しないのですが、それを加味しても、引っかかる。冷たい言い方になって心苦しいのですが、評者が10代後半から介護を経験したことと、若者の一人一人が置かれている状況に直接の因果関係はありません(社会問題としてヤングケアラーが増えている、あるいは可視化されてきたこと自体は理解しています)。またこれが社説ではなくプロの「書評」だと思えばこそ軽率で、評者がプライベートな生い立ちを語れば、読者の注意は評者自身へと向かい、肝心の本への注意が殺がれます。書評において大切なのは紹介作品であり、自分語りではない。冒頭で注意を自分に向けさせる意図はなんなのでしょうか。念のため、社会的であれ個人的であれそこに意図があって、尚且つそれが本の批評たりえていれば仕事として問題ないと私は思うのですが、率直に、その意図が分からなかったです。
また、「若者」への考察には、かすかな反駁を感じました。ご年齢に触れるのは失礼かなとも悩んだのですが、評者の鴻巣氏は50代後半の女性、バブル経験者。今の若者の気持ちが解るものでしょうか。今の若者――私たちは、環境破壊、バブル、悪政、敢えて明言すれば鴻巣氏を始めとする上の世代が贅を尽くしてきた尻拭いをひたすらさせられ、持ち場を放棄したくとも年齢によっては選挙権すらなく、苛立ちを抱え、時にジェネレーション・レフトとまで呼ばれて日々政治と闘っている世代です。ただ絶望しないためだけにすら多大なエネルギーを強いられ、ギリギリのところで「いい加減に大人選挙に行ってよ」と堪えながら、オンライン署名活動などを通して中枢へ意見し続けているのが実情です。

持ち場を放棄して遠くへ行きたくなる?
その後に抱えた心の重り……?

この時点で、これは「若者」に語りかけてはいるけれど、少なくとも私のために書かれた文章ではないのだなと理解しました。
理由は不明だけれど、逃げる前提の世代がこの人の中での「若者」なのだなと。

付記すれば、職能的な技巧も気にかかりました。若者の実情をただ「わかる」と傾聴する書き方ならばここまで引っかからなかったと思うのですが、「10代後半から介護を経験した今の私には」と、あくまでも自分の側に話題を引き寄せてから「わかる」と切り出す話法。
既視感があったのは英語圏でもよく見られるas a father of daughters論法

正直、最初の数行でこれだけの違和感がザッと脳裏をよぎってしまっては、書評をフラットに読むことさえ難しいと覚悟したのですが、しかし文芸時評の社内コンセプトを私は知りませんし、コーナーを担当する鴻巣氏自身が朝日新聞の売りという可能性もありますから、コラミニストの鴻巣氏が主人公の一人称小説のようなものと思って読めばいいのかな、と自分なりに納得して読み進めました。その上で。
『少女を埋める』の問題の箇所に差し掛かったときは、さすがに「これは……」と考え込みました。

「ケアとジェンダーの観点からは、「少女を埋める」(文学界9月号)にも注目したい。実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編である。
 語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた、ある種のケア放棄者だ。地元を敬遠するようになった一因は神社宮司との結婚話にある。「神社の嫁になり、嫁の務めを果たしながら空き時間で小説を書け」という勧めに抗し、冬子は小説家のキャリアを選ぶが、家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」

鴻巣友季子「(文芸時評)ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」朝日新聞デジタル,2021年8月25日 

まず、書評対象の「文學界」を「文“学”界」と記述する初歩的な表記ミスも引っかかったのですが(とりわけプロの書評において、これが失礼なミスであることは言及されるべきだと思うのですが)、何より問題なのは、評者はこの作品を「自伝的随想のような」と引いていることです。
暗に「事実かもしれない」と言っている。
私小説は小説です。文学のコミュニティーで虚構を虚構と紹介することと、一般大衆向けに「事実かも」と示唆することとでは全く事情が変わってきます。「虐待した」という解釈(?)がそもそも酷い誤読であり、作中に介護描写さえなかったのですが、特筆すべきは誤読以前。
「こんなことを新聞媒体に掲載すれば風評被害で人が死ぬ」と、自覚せずに載せてしまう軽率さが問題なのです。
この軽率さは、心苦しいながら、「子供」「文学界」といった誤字にも深刻に表われていると感じました。ケアとは他者に寄り添うことです。プロの文筆家が、真摯に作品に寄り添っていたならば、わずか数千字のスペースで二カ所も誤字が出るものでしょうか。鴻巣氏のご実績を知っていればこそ、やっつけ仕事の感が否めませんでした。

例え過失が原因だとしても、自分のせいで人が死にかけたら私ならば焦ります。
田舎の風評被害は、大袈裟ではなく地域で生きていけなくなるだけの致死性があります。それは近々のコロナ禍の陽性者への反応からも解っていたはずです。
けれど鴻巣氏が誤読の指摘を受けて最初にしたことは、被害者の心配では無く「解釈の自由」を訴えることでした。
表向きには謝罪もなく、その姿勢は一貫しており、鴻巣氏が桜庭氏からの抗議を受けて尚、「修正した」文章の形でずっと残ることになりました。

「家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、弱弱介護のなかで夫を「虐(いじ)め」ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ」

鴻巣友季子「(文芸時評)ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」朝日新聞デジタル,2021年8月25日 

繰り返しますが、「そのように読んだ」からと言って、人を死の淵に追いやっていいのか。
「解釈」を盾に取れば何をしても許されるのか、という部分が争点なのです。

ドイツ司法は、嘘を「意見」と認めない。

個人の問題を、歴史問題にまで引き上げるのはいささか乱暴ではないかとも悩んだのですが、そもそもあらゆるジェノサイドは個人が殺害された集積であり、加害に目をつむる姿勢は加担と変わらないという考えから、以下に私自身の考えを記します。
「ユダヤ人虐殺はなかった」としたアーヴィングは解釈の自由なのか。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」と吹聴した関東大震災のデマは表現の自由なのか。

献身的な母親を「虐待妻」と喧伝することは報道の自由なのか。

一つの答えは、ドイツ憲法裁判所による1994年の判決です。

「被告人が、自分は歴史の一つの解釈を示しているに過ぎず、これを処罰するのは表現の自由の侵害であると主張したらどうだろうか。ドイツの憲法である基本法は、その第五条で表現の自由を謳っている。何人も、意見を自由に発表する権利を有し、学問、研究、教授は自由であるとしている。
この点については、ドイツ憲法裁判所による1994年の判決がある。そこでは、ホロコースト否定論は「虚言」であるゆえ、表現の自由の保障は認められないと判断している。つまり、嘘はそもそも「意見」ではなく、表現の自由の保障の対象にならないというのだ。虚言が『自由な言論』などと看板を掲げることを認めないのである」

武井彩佳『歴史修正主義』中公新書,2021

民主主義が成熟するとここまで来るのかと、この判決を知ったとき、私は肌が粟立ちました。一歩間違えれば小説など虚構への表現規制に繋がりかねない危うい司法判断であることは明白で、それを尚「可能」とするドイツ人のバランス感覚に圧倒されたものです。
ヒトラーが合法的に議会で市民権を得た国であればこそ、法の過ちは法で正すとでも言うような透徹な信念を感じました。

一方で近似する理由から、鴻巣氏の「自由」な言論姿勢が、私は賛同できかねる一方で、必ずしも「間違い」とは考えない地域があることも付記しておきます。

「ホロコースト否定論は北米とヨーロッパでほぼ同時に表われたが、地域的な特質がある。たとえば、アメリカ、カナダなどでは、明白に人種主義的な性格が強い。これは、多民族、多人種の移民国家であることが関係している。他方、ドイツやフランスなどナチズムの当事国であったヨーロッパでは、表面的には歴史の問題として提示される。
地域的な特色は、少なからず各国の法制度の影響を受けている。アングロサクソン系の国では「表現の自由」を重視する法的伝統がある。特にアメリカでは表現の自由は不可侵とされる。悪しき意見にも発言の自由は認められねばならないという前提があり、ホロコースト否定論を支持するかどうかは個人の自由となる」

武井彩佳『歴史修正主義』中公新書,2021

鴻巣氏は英語翻訳者ですから、後者に寄った考え方の持ち主なのかもしれない……とも考えられますが、これは私個人の憶測に過ぎません。
いずれにせよ、当事国でもない外野がホロコーストというヨーロッパの中心で起こった凄惨なジェノサイドに対し、「嘘だろ」と放言することさえ自由と定義する英語圏の風土は凄まじいというか、よく言えば徹底していますし、悪く言えば傲慢で迷惑な話だとも感じます。
現に、ドイツのホロコースト否定論は1980年代後半にアメリカやカナダから「輸入」され、ネオナチが拡散した苦い歴史があります。当時の民衆煽動罪では歴史修正主義に迅速に対応しえないと明らかになっていく中、ホロコースト否定の言説自体を違法化せざるをえなかった。
そうすれば少なくとも、生きた被害者が「人間の尊厳を傷つけられた」と身を裂いて立証する必要が無くなるからです。
ドイツの法規制は言わば外からの飛び火で、必要に駆られたものです。
翻訳者の責務は重い。

ドイツは基本法の中で、表現の自由を第五条に定めています。
人間の尊厳を、表現の自由よりも先に置いている。
この順番はドイツという国家の理念そのものです。加害の歴史に向き合い続けた国は、生きた人間の尊厳が守られない場合は、表現の制限もやむなしと克己する。
一方でアメリカは、合衆国憲法で表現の自由を修正第一条に定めている。これも国の理念なのでしょう。

そして日本は、憲法前文で、国民主権について明記し、こう謳っています。

「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」

衆議院HP、日本国憲法 前文

翻訳というのは元来、全く違う土地へ、植物を植え替えるような仕事です。
その暴力性は常に頭の隅に置かなければなりません。翻訳それ自体はDeeplなどの自動生成で「誰でも」触れられるようになりつつある今、翻訳者に求められているのは、文章力など誤読を防ぐための技巧は勿論、リテラシー、何よりも異文化への敬意ではないでしょうか。
これは翻訳に拘わらずあらゆる文筆業の基本姿勢にも通ずると信じているのですが、読者は生きた人間だということを忘れずにいたいです。

人を傷つけてまで、その「嘘」を書きたいか

「自伝的随想のような」と引いた上で、一人の人間の尊厳を貶めることは、新聞で書いていい内容ではないと、私は思います。
相手が政治家でもない私人であれば尚更です。

既視感があったので、以下も引用しておきます。

https://twitter.com/Shota_824m0Xbot/status/875551888153788417

ここから先は、とりわけクリエイターには釈迦に説法かと思い心苦しいのですが、自戒も込めて書いておきます。

日本国憲法は第12条及び第13条で、基本的人権についてこう定めています。

第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

衆議院HP 日本国憲法〔個人の尊重と公共の福祉〕

第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

衆議院HP 日本国憲法〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕

公共の福祉とは、他の人の人権との衝突を調整するための原理です。
具体例を一つ挙げれば性的表現の規制。
なにか最近、恐らく衆院選が近いからだと思うのですが、「表現の自由が侵害される!」と殊更に性的表現の擁護を煽り立てるツイートを散見するのですが、これは前提から間違っています。
まず刑法第175条において、既に性的表現は規制されています。

(わいせつ物頒布等)
 1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
 2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

刑法第175条

補足すると、「わいせつ」の定義については曖昧です。
最高裁の判例はあるものの、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(昭和26年5月10日刑集5巻6号1026頁)となっており、解釈の余地を多分に残す内容です。
出典を見て頂ければ明らかな通り、昭和初期の判断ですから、これが論争の火種となり、何をもって「性的」とするかが政治的な判断になりうる……というのが現況だと私は認識しています。
しかしこれが曲解されて、文壇ですら虚報が拡散される事態となっている。

https://twitter.com/MIKITO_777/status/1450022834021928964

必要だと感じたのでこちらも訂正しておきます。
「表現規制は最初はほぼ確実に性的表現を標的とする」とありますが、私の知る限り、ヨーロッパでも中東でもアジアでも、歴史は逆です。中東については先月も少し触れましたが、まず自国の歴史から。

日本の「表現の自由」の歴史

「日本政府が言論の自由や国民的議論を厳しく制約し始めたのは、1931年以前のことだ。そもそも明治憲法が保障する言論の自由は、政府が法律により定める範囲に限られていた。そして日本人当局者は、多くの場合この許容し得る範囲を厳しく制限していた。戦時中のプロパガンダ活動を規制していた、マスメディアに関連する法律の中核は、1893年の出版法と1909年の新聞紙法だ。これ以降も議会はメディアに関する法律を多く通過させたため、規制の数は増加の一途を辿っていった。これらは、1925年の治安維持法、1936年の不穏文書取締法、1937年に改正され厳格化された軍機保護法、1941年の新聞事業令、1943年の出版事業令等、例を挙げれば枚挙に暇がない。これらの規則はいずれも民間人のみがその対象とされていた法律であり、軍事機密に関しては全く別の仕組みと規則が存在していた」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

法務省が女性雑誌広告規制計画を策定したのは、1938年です。
「表現規制は最初はほぼ確実に性的表現を標的とする」というのは、単純に時系列として間違いです。
当局が性行為や「純潔な少女」の道徳観に抵触する小説の規制を強め、特に発行部数が多い雑誌に掲載される写真規制を行ったのは実際ですが、それらは他の政治規制が実行された後です。これは考えてみれば当然の順番で、そもそも「純潔な少女」を政府が推奨した理由は、それが国体の維持に必要だと、軍事的・政治的な意図で判断されたからに他なりません。

「当局者は、日本社会の道徳的規範が衰退することが無視しえない軍事的影響を及ぼすことを懸念しながらも、性行為が軍事動員の一助となるとも考えていた。朝鮮人・中国人・オランダ人・日本人女性を、戦地で性奴隷、所謂「慰安婦」として働かせるために集めた日本軍による膨大な取り組みは、このような考えの一例である。これとは対照的に、国内における性行為は異なって見られていた」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

「男性がその大半を占める官僚組織と警察では、戦争遂行上国内で女性の存在が必要とされているため、女性は汚されてはならないと考えていた。帝国軍と日本官僚は、女性を日本社会の支柱とみなし、女性が家庭を守る間、男性が海外で活躍する、という役割分担を想定していた。そして、女性の性行為を暗に推奨する性的な道具や性欲を高める商品等の広告は、銃後の純血を守るというビジョンに相反するものであった。」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

ここでいう「純血」とは「鬼畜米英との混血ではない」という意味でしょうが、女性をモノとしか認識していなかった世界観がよく解ります。国内で貞淑を要請しながら戦地で慰安婦に駆り出す異常さ。
性的表現は規制されるというよりも、「政治の都合でいいように利用されていた」というほうがより厳密です。

「日本人当局者やプロパガンダ制作を担った技術者が、異常な性的嗜好を持っているとされた汚らわしい欧米人のアンチテーゼとして、日本社会を描写したかったという側面もあるだろう。戦時下日本のプロパガンダが記されているビラの多くは、このようなテーマを頻繁に取り扱っている。例えば、日本のプロパガンダを掲載した大判新聞には、太平洋諸島に住む原住民をレイプする白人兵士の様子が描かれているものがある。また、連合国軍兵士に祖国に戻りたいと懐かしませることで戦意を削ぐことを目的にデザインされたであろうチラシの多くには、欧米人は性行為の頻度が高い、という日本人の思い込みを反映しているかのように、露出度の高い服を着た女性が描かれている」

バラク・クシュナー著,井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店,2016

これは日本に限らず戦時下ではよくあった話で、例えばドイツ。
ナチズムにおけるあるべき女性観が、「価値ある血統の血を増殖させる」ために多産する「控えめで、従順で、献身的な主婦」だったというのは公知の事実ですが、一方でユダヤ人に対しては、音楽を使って集団レイプを盛り上げた記録も残っています。
ミソジニーが家父長制的な思想を浸透させるための政策であったことは歴史が証明している事実です。現にゲッペルスは1933年5月、図書館から書物を押収して焼き払っていますが、その内容は反ナチに留まらず、マルクス、フロイト、ハイネなど、政治思想の書物が大半です。

最初に性的表現を規制……?

あるいはどこかに、「最初に性的表現の規制」をした歴史の国があったのかもしれませんが、私は寡聞にして知りません。性的表現に極めて慎重なイスラム社会ですら、最初に殺されたのは教育です。ローマのパンとサーカスの時代から、愚民政策と言えば3Sが常套だと私は認識していました。皮肉な話、本邦現政権の方針に照らしても、Screen(NHKへの人事介入、改正国民投票法の成立)、Sports(東京オリンピックの強行)、Sex(非実在児童ポルノの氾濫)と、ああ完璧な布陣だな、最悪だな、とさめざめと思っていた矢先でした。

2021年、日本の「表現の自由」の現在

https://twitter.com/BooksKuryudo/status/1450413938760241157

島国の「表現の自由」についての言説は混迷を極めています。
虚報も数え切れないほどあり、今回の衆院選であれば「日本共産党が表現規制を公約にしている(※公約を確認しましたがしていません)」などがあったのですが、虚報の発信元の山田太郎議員へ前記の趣旨の引用RTを飛ばしたところ、30分で100件近い誹謗中傷が飛んできました。
文字通り秒速でわいてきたほぼ全てが、フォロワー数ゼロのアニメアイコンアカウント。恐らく今回も大半がミソジニーのカルト的信者なのだろうと納得したものの、各議員が政治資金をどう使っているかは藪の中です。
日本のウォーターゲートと悪名高いDappi疑惑も晴れないまま衆院選に突入していることが象徴的ですが、去年の今頃は「コロナこわいけどぉ、安倍のイヌ見たら元気出た」「よく考えたらコロナウイルスかかっている人あんまりいないよね笑」の投稿が量産され、それと同じタイミングで安倍元首相がランサーズ社長と会食し、ネット求人で与党寄りの書き込みスタッフが募集されていたことも思い出しました。

千葉県警のVTuver起用に意見申し入れをしたフェミニズム議連へ、殺害予告があったのも今月の話。ここまで露骨だとかえって解りやすいものですが、殺害予告は「表現の自由」ではないですよね。
「残念だな……私も漫画・アニメのファンなんだけどな……」と沈鬱しながら端からブロックしていきました(余談ですが、後に裁判等で使えるので、似たような状況に陥った方は、大変ですが全てスクショ保存することをおすすめします)

一方で内容には全て目を通し、9割が「紙に人権なんてあるわけないだろwww」とする論調であることも確認しました。
こちらも補足しておきます。
「紙に人権はない」のレトリックは、I have a black friend論法等と同じく、児童ポルノの「表現の自由」を訴える界隈で使われる、幼女殺人や幼女陵辱を肯定的に描くことを認めさせたい層の典型的な話法です。
その論拠(?)は、作品は全て「モノ」だから、読者の好きにしていいとするもの。
ここまで読んで頂いた方ならば、アーヴィング裁判や1994年のドイツ判決、また戦時下日本プロパガンダと照らしてもいかに稚拙な主張か解ると思うのですが、まず一つ目の矛盾。
この方たちは漫画・アニメの「ファン」を自称しながら、作中の女の子たちのことはモノだから好きに陵辱していい、と主張している。

【fan】(ファン)
 (アメリカ 口語)スポーツ・演劇・映画・音楽などで、ある分野・団体・個人をひいきにする人。

広辞苑・第五版

恐らく、「ひいきにする」という部分で、金を払っているのだから好きにさせろ、という言い分でしょうか。
彼らが言いたいのであろう内容の理解はできます。もしも架空キャラクターに人権を認めてしまったら、殺人ミステリー描写さえ難しい。AI人権問題と同じで、核廃棄物処理などの危険作業にロボットを駆り出すことが「人権侵害」に該当しうるとする思考は早計かつラディカルだ、といったところでしょうか。
けれどこれは典型的な論点ずらしで、まず前提として、私は「紙に人権がある」とは一言も書いていなかったこと。要するにミスリードです。それを踏まえた上で、敢えて「紙に人権なんてあるわけないだろwww」について考証するとしても、これはやはりおかしな言説だと言わざるをえません。

というのも日本の法律において、紙に人権は、あるからです。
著作権法第18条から第20条及び第113条6項。

著作者人格権です。

同一性保持権品は、作品を無断で修正されないことを要求する権利を保障しています。著者がアウトだと言えば、二次創作の非実在児童ポルノ等は全て犯罪。罰則も定められており、著作者人格権、実演家人格権の侵害などは、5年以下の懲役又は500万円以下の罰金。
著作権法第113条11項でも、「名誉声望を害する方法での利用を禁止する権利」が保障されており、クリエイターが作品を「性風俗営業の広告に利用されたくない」等と思えば、その使用を禁止できます。
(というか二次創作に関しては、著作者人格権以前に、著作権侵害である時点で本来アウトなのですが)
いずれも、「紙の表現物だから購入者が好きにしていい」という言い分からはかけ離れている法律であり、念のため繰り返しますが、日本の現行法です。

金を払っているから好きにさせろ、は通らないのです。

というか、金を払ったから(女の身体を)好きにさせろ、という発想が常軌を逸していて怖いです。絵だから構わないと「レイプ」ジャンル等を肯定する方々は言いますが、逆に言えば、「絵だ」という一点を除けば、マインドはDVモラハラ風俗利用者そのものです。
図らずも児童ポルノと非実在児童ポルノが抱える問題の近似性を証明しているのでは……と私は思ったのですが、これはもう少しデリケートな議論を要しそうなので今は脇に置きます。
いずれにせよ、被害者や性犯罪専門家の指摘を無視して議論していい内容ではないのではないでしょうか。
明治初期の法律が今日まで改正されず、いまだに性的同意年齢が13歳で、妊娠中絶において堕胎罪が適用され、配偶者の同意がなければ中絶できず、その中絶も掻爬術で中絶薬は保険適用外、離婚にさえ「正当」な理由が求められ、不倫慰謝料請求が既婚者レイプ犯罪の助長になり、薬局でアフターピルさえ買えない国。
この状況下で、男性による「性表現を規制するな」という声だけ優先的に取り上げるとしたら、それは政治的思惑以外の何があるのでしょうか。

ナチスが「あるべき女性像」を定めたように。
自民党が、未だに家父長制を珍重しているように。

https://twitter.com/BooksKuryudo/status/1449951020843372545

余談ですが、スウェーデンには風俗がありません。
1999年に売春ではなく買春を禁ずる「買春禁止法」が施行されています。
買春という社会現象は、女性を性的にモノとして扱い、搾取し、支配する家父長権力の一環として機能しているという社会の共通認識が出来上がっているからです。日本はともかく国際的にはこうした国もある、ということを一つ判断材料として提示しておきます。
(※セックスワーカーの権利の話と混同されると嫌なので付記しておきます。現在働いている方のための法整備は当然に必要と考えています。また、北欧モデルが必ずしも安全と判断できるかと言えば、地下に潜った実例や現地の運用実態を知らない内は難しいのではとも考えています)

衆院選は、明日です。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。
紅龍堂でも選挙割りのような、何か投票の後押しになるようなフェアができないかな……と悩んだのですが、「若者の投票率は若者が上げる、それより大人は同世代に投票呼びかけて」の学生さんのツイートを見かけて、頬を叩かれたような気持ちになり、筆を執るに至りました。
大人も子どもも、プロもアマチュアも、日本語話者もそうでない誰かも、「あの時、投票したよ」と、いつか笑ってお話できれば嬉しいです。
(2022年12月26日追記:選挙権がない方もいるので、通年で子ども割を始めました。学割と称さないのは、学校に通えない未成年者、未成年のお子様がいるシングルマザー・ファザーの方、虐待被害を始めとする様々な事情でご家庭に本を置けない方など、本を読みたい児童は勿論、子どもに本を読ませたいけれど困難に苛まれている「あらゆる層」にご利用頂きたいという願いからです。)

末筆ながら、ここまで書くための推進力となった「キメラ――『少女を埋める』のそれから」より、以下の言葉を、自分への訓戒として終わりにしたいと思います。

「わたしは今日いまこのときもどんどん年を取っていく。だからこの点検作業をたえまなく続ければならぬ、と改めて思う。
同時に、この作業は、ほんとうの実感を伴い、身に深く染みこむものでなくては意味がないと、心をおいてきぼりにしたまま、ただマニュアルを習得するように効率的に取り入れてはいけないとも、強く感じる。それは年を取りつつある大人たちのエゴイスティックな生存戦略にすぎないからだ。平時は一見ちゃんと振る舞えているようでも、非常時になると、旧態依然とした価値観が顔を出し、生身の相手を傷つけてしまう」

桜庭一樹「キメラ――『少女を埋める』のそれから」(『文學界』2021年11月号)

【推薦図書】
私が読んで良かったと思った本をご紹介します。発行年も記載しておきます。
投票の帰りに探してみて頂ければこの上ない幸いです。

  • プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳『[改定完全版]これが人間か』朝日新聞出版、2019
  • リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、永井清彦訳『[新版]荒れ野の40年』岩波ブックレット、2015
  • 石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015
  • アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳『ドイツ統一』岩波新書、2020
  • マライ・メントライン『笑うときにも真面目なんです』NHK出版、2018
  • 山崎雅弘『沈黙の子どもたち』晶文社、2019
  • 藤野一夫、秋野有紀、マティアス・テーオドア・フォークト編『地域主権の国ドイツの文化政策 人格の自由な発展と地方創生のために』美学出版、2017
  • ヨーラン・スバネリッド 鈴木賢志+明治大学国際日本学部鈴木ゼミ編訳『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』新評論、2019
  • 川崎一彦、澤野由紀子、鈴木賢志、西浦和樹、アールベリエル松井久子『みんなの教育 スウェーデンの「人を育てる」国家戦略』ミツイパブリッシング、2019
  • バラク・クシュナー著、井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店、2016
  • イアン・ブルマ著、堀田江理訳『暴力とエロスの現代史 戦争の記憶をめぐるエッセイ』人文書院、2018
  • [聞き手]岩崎稔、成田龍一『ノーマフィールドは語る 戦争・文学・希望』岩波ブックレット、2010
  • 吉田茂『日本を決定した百年 附・思出す侭』中公文庫、2018
  • 西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』現代書館、2020
  • 秦郁彦『南京事件「虐殺」の構造[増補版]』中公新書、2020
  • 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、2014
  • 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫、2020
  • 佐藤智恵『ハーバード日本史教室』中公新書ラクレ、2017
  • 川端康雄『ジョージ・オーウェル「人間らしさ」への賛歌』岩波新書、2020
  • 佐藤学、上野千鶴子、内田樹『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』晶文社、2021
  • 武井彩佳『歴史修正主義』中公新書、2021
  • ダグラス・マレー『西洋の自死』東洋経済、2018
  • 桜庭一樹「少女を埋める」(文學界・2021年9月号)
  • 桜庭一樹「キメラ――『少女を埋める』のそれから」(文學界・2021年11月号)
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