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『Black Box Diaries』を視聴して

※本記事は映画『Black Box Diaries』をきっかけに書かれたものです。
性被害に関する話題を含むため、当事者の方はどうか無理をなさらず、体調やお気持ちに合わせてお読みください。

3ヶ月前、映画『Black Box Diaries』を視聴した。
「これがジャーナリズムでなくて何がジャーナリズムなのだろう」と感じるくらいには衝撃を受けたし、SNSやインターネット上の議論に疲弊した。

日本のインターネット上では、「この作品をジャーナリズムとは呼べない」という意見が散見される。伊藤詩織監督自身も、パンフレットの中で本作をドキュメンタリー作品として受け止めてほしいという趣旨の記述をしている。
謙虚な方だと感じた。

フェアネスの基準

映画の中では、関係者との会話が数多く――途方もなく膨大な証拠が――録音されている。そのこと自体を批判する声も多い。
しかし前提として、日本の法制度において、証拠保全目的で会話当事者が相手との会話を録音することは、基本的に違法ではないとされる(※混同している方が多かったので補足すると、「第三者が」他人の会話を盗み聞きする盗聴や隠し撮りとは性質が異なる)。もちろん録音の利用方法や公開の仕方には慎重さが求められるが、録音そのものを理由に一律に否定することはできないし、すべきでもない。
SNS等の様々な「議論」(それこそ証拠保全と盗聴・隠し撮りを一緒くたにするような乱暴な主張)は、被害者の数少ない立証手段を萎縮させる。

私が映画から印象を受けたのは、録音よりもむしろその基準だった。
伊藤氏は、誰が「味方」であるかによって記録の扱いを変えない。警察官であれ、記者であれ、弁護士であれ、支援者であれ、同じ基準で――それがどれほど困難かを明確に自覚しながら――記録し続ける。

好悪で態度を変えない

この徹底した姿勢は、ジャーナリズムの原則に照らして、むしろ筋が通っているように私には感じられた。ここで言う原則とは、正確性・独立性・公正性・説明責任を基礎とし、公共性のある事柄を検証可能なかたちで伝えるという基礎的なものだ。
なお「検証可能性」において、海外上映は視聴者が日本語の裁判記録に容易にアクセスできないためフェアでないとする意見が見受けられたが、判決の要旨は公開され、海外メディアは(ともすれば日本以上に)骨子をカバーしている。書面や証拠一式にフルアクセスするためには確かに裁判所への直接訪問が必要だが、仮にフルアクセスが容易であったとしても、確定した民事判決の証拠評価を適切に読み解くには法的知識がなければ難しい。この点は必ずしも外国人だから不利と言える部分ではない。日本視聴者でも同様に困難だからだ。私自身、フルアクセスしたとする日本の文筆家の記事を拝読したが、前記の懸念通り証拠保全と盗聴・盗撮の違いといった基礎的な法知識がない(あるいは、あったうえで割愛した)論考がなされており、考えこまざるをえなかった。

その他にも映画をめぐるSNS等の議論において、正確性・独立性・公正性・説明責任を基礎とし、公共性のある事柄を検証可能なかたちで伝えるという原則からは、かけ離れた批判が頻回に現れることに戸惑った。
「味方なのにひどい」。
この一言が出た瞬間、議論の性質が変わる。

ジャーナリズムにおいて問われるべきは、権力や制度をどのように記録し検証するのかという点であり、そのためには、取材や記録の方法は一貫していたほうが理に適っている。
中には「一貫性」を盾に取り、伊藤氏にとって不利な状況、たとえば加害者と認定された山口の供述まで併記すべきとする論も見られたが、それこそ判決要旨で「核心部分について不合理に変遷」「信用性には重大な疑念」とまで明記された山口の自己弁明をドキュメンタリー映画で流すことは、フェアと言えるのだろうか。証拠の重みづけを無視して「両論」に見せかけることは端的に不正確であり、山口に利するミスリードになりかねない。

そうした中で、さらに「味方なのにひどい」とする声を伊藤氏にかける意味について考え込んでいる。
まず「味方」とはなんなのだろう。そもそもが信用性の低い加害者側の反論を、被害当事者の作品でわざわざ手厚く紹介するよう呼びかける自称支援者は味方なのだろうか。どちらかというと二次加害ではないのか。
議論に「味方」という言葉が入り込んだが最後、社会制度の問題は、人間関係の道義や仁義の話へとすり替わってしまう。
助けてくれた人を「裏切る」行為ではないか。
信頼を「損なう」やり方ではないか。
感情は理解できる。
けれど感情で判断することがいかに危険かを、私たちはこの目で見てきたのではなかったか。

『Black Box Diaries』は、私的な人間関係の話ではない

性暴力の被害と、それをめぐる構造の話だったはず。
さらに言えば、登場人物の中には公権力に属する人間もいる。警察という組織は、本来、説明責任や検証の対象となる公的機関だ。そこに「味方」という概念を持ち込んだ瞬間、組織の問題でさえ、個人的な忠誠の問題へと矮小化されてしまう。
(補足しておくと、私自身は警察官Aを「味方」とも受け取れなかった。記録された彼の発言は、私がこれまでハラスメントや二次加害として理解してきた言動と重なるものだった。また、繰り返しになるが当事者の手で証拠保全目的で録音された「記録」は、警察の公式見解と同一視すべきものでもない)

権力を記録する基準は、本来、人間関係の好悪で変わるべきではない。
好きな人は記録せず、嫌いな人は記録する。
もしそうしたダブルスタンダードが認められるなら、それは権力監視ではなくポジショントークになってしまう。
SNSを筆頭とするインターネット上の「議論」、とりわけ伊藤氏を批判する論調の記事において、このポジショントークによる批判が非常に多いことに疲弊した。
○○とは個人的な知り合いだ。
△△とは仕事を一緒にしたことがある。
だから知っている。
○○は悪くない。
△△がこのように映されて気の毒だ。
そうした「批判」は、そもそも批判なのだろうか。

その「正しさ」は誰のためか

誰であれ同じ基準で扱う。好悪ではなく原則に従う。
私の知っているジャーナリズムにおいては、それは誠意の問題ですらない。必要条件のはずだった。しかしSNSの議論では、焦点は別のところに置かれているように見受けられる。
なぜ録音という「方法」を取ったのか。
なぜ話者に「配慮」しなかったのか。
様々な場面で問題とされている許諾については、なぜ「慣行」を守らなかったのか。
とりわけ後者については、明確な白黒はなくリスク評価の問題だ。人格権・プライバシー・契約関係などが複合的に絡み合う。それを一律に「倫理」のレイヤーで語ることは、正確性・独立性・公正性・説明責任を基礎とし、公共性のある事柄を検証可能なかたちで伝えるという原則に照らして、フェアと言えるのか。
もちろん、被写体保護や信頼関係、後の紛争回避などの観点から許諾を取ったほうが理想的であることは間違いないだろう。しかしくどいようだが、少なくとも録音・記録そのものが直ちに違法とされるわけではない以上、そうした「慣行」と天秤にかけて、最終的にどのように作品をつくるかは――たとえ非倫理的であると誹りを受けるとしても――決定するのは監督の自由だ。

個人的には、皮肉にも『Black Box Diaries』に関して言えば、倫理を優先すれば明るみになりえなかったさらなる非倫理や悪辣な事実、マイクロアグレッションが多すぎるため、伊藤氏がこうした手法を採用してくれて「よかった」とさえ感じた。
映画の公開にあたり許諾が抜け落ちた関係者に同情はするが、一方で、許諾を問題とした関係者の職業や立場を見る限り、必ずしも一般人と同列に論じるべきかも疑問が残った。弁護士や記者であれば、記録行為と公開利用の法的評価が分かれ得ることは理解していた可能性が高い。
むしろ「許諾漏れ」という観点で論じるならば、映画の中に一瞬登場した子どもたちの顔をこそ、私は隠してほしかった。万が一、DVや虐待から逃げているご家庭の子であれば、所在地を特定されるリスクが残る。しかし伊藤氏を「批判」する多くの支援者は、大人の肖像について論じ続ける一方、見知らぬ子どもに対しては沈黙している。

私が『Black Box Diaries』の透徹さ(一種、感情を切り捨てて作っているようにさえ見えた冷徹さ)に感銘を受けたのと同様に、義理や人情、温度感から本作品を嫌悪し、批判することも第三者の自由だ。
ただ、その批判が端を発する事情が「○○が気の毒」「△△から相談を受けた」など個人的な関係由来であると、疑問を感じざるをえない。
大前提として――くどいようだが――被害の渦中にあった二十代の女性が、他人のケアまで背負いながら報道する必要も義理もない。
それにもかかわらず、伊藤氏を「道義的に許せない」というだけの理由で、「あなたが望む正しい被害者」であることまで証明させようとするのなら、その社会はグロテスクだと言わざるをえない。

共感優位社会の危険性

事実と、検証可能な事象と、可能性にすぎないことは明確にレイヤーが異なる。
『Black Box Diaries』をめぐる一連の報道・SNSの加熱性でとりわけ強い疑念を覚えたのは、権威者による「私はその件について関係者で、事実をよく知っている」という話法だった。前記の通り、事実と、検証可能な事象は異なる。
事実(たとえば裁判所記録)を知っていたとしても、検証可能な法知識がないうえで流布すれば、虚偽情報に近いミスリードとなりかねない。そしてたとえミスリードだとしても、「権威者」の論考を見た大衆は、懸念が懸念でしかない段階で軌道修正を始めてしまう。
その軌道修正は、権威者への共感に基づいた憶測でしかない。
今さら言うまでもないが、この問題については司法の判断がすでに存在する。
それでもなお「私はその件についてよく知っている」というSNSの断片的な言葉のほうが信頼されるのだとすれば、それは司法よりも個人の印象が重い社会ということになる。

なお権威者への「共感」という観点で言えば、伊藤氏を擁護する論にもやや早計に感じるものがあった。
「精神疾患なのではないか」「PTSDだからでは」という、一種の同情だ。行動それ自体を検討するのではなく、ある種の属性に紐付けて評価しようとする態度が見受けられた。
このようなことを書くことは心苦しいが、「日本人だから正しい」「男だから正しい」といった理屈が成立しないのと同じように、「病気だから可哀想」「可哀想だから正しい」という三段論法も成立しない。逆に、「病気だから危険だ」という短絡もまた同様に成立しない。
自分にとって理解しがたい言動を、理解できないという一点だけで何らかの疾患に結びつけて語るのは早計であるのと同様に、自分にとって「理解しやすい」状況に紐付けて語ることもまた危険であり、何より事実に即さない。
私たちがそうであるのと同じように、病気や障害のある人にも善人もいれば悪人もいる。
病気や障害に限らずあらゆる属性は、人の善悪を保証するものではない。

伊藤氏は伊藤氏であって、私たちの代表ではない

SNSはよくも悪くも距離感が歪みやすく、共感しやすい相手を自分に引き寄せて「投影」しやすい。
しかし言うまでもなく、彼女は被害者である以前に一人の人間であり、意志を持った他人だ。
私たちが何を望もうと、望まなかろうと、伊藤氏はどこへだって飛び立っていく。

映画を視聴した後、岩波書店から刊行されている『裸で泳ぐ』を読んだ。伸びやかな文才と、抑制的な文体にため息が出た。インターネットの喧噪からは程遠い静けさが紙の上に広がっていた。
あなたの孤独に救われる人がいる、と思わずつぶやいて、暴力的な自分の言葉に疲弊した。
私ならば、自分の意図から遠く離れた場所で、自分のせいで救われる人がいて、その人がどこかで恩義など感じていようものなら、それはとても恐いことだと思う。人には勝手に救われていてほしい。

伊藤氏は次は何を「描きたい」と願うのだろう。
楽しみだし、楽しみにしていいのだろうかとためらう。

今日の1冊は伊藤詩織著『裸で泳ぐ』。

参考図書

  • 伊藤詩織著『Black Box』文藝春秋
  • 伊藤詩織著『裸で泳ぐ』岩波書店
  • 伊藤詩織監督『Black Box Diaries』劇場パンフレット
  • 大藪順子『STAND――立ち上がる選択』いのちのことば社
  • デイヴィッド・パトリカラコス『140字の戦争――SNSが戦場を変えた』早川書房
  • スティーブン・レビツキー, ダニエル・ジブラット共著『民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道』新潮社
  • ジョナサン・ハイト『不安の世代: スマホ・SNSが子どもと若者の心を蝕む理由』草思社
  • 米田智彦『シン・SNS論 テック・ファシズムの支配に、どう立ち向かうか?』技術評論社
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